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題名:1.27 近江1 (1/2)

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昨年10月に石田三成に興味を持ち出してから3ヶ月。
いろいろ調べるうちに、なんかだもう、居ても立ってもいられなくなり、1泊2日で行ってきました。勢いって、大切だとおもいます。宿泊ありのひとり旅ははじめてでした。
例年、彦根や米原は1月2月は雪が積もると聞いていましたが、今年は暖冬!
今しかない。

このたびの目的は以下3つ。
1.佐和山に登る 2.石田町に行く 3.観音寺に行く
年末で大河(功名が辻)も終わったけど、その中でもまた三成は関ヶ原で負けて死んでしまった…せつない。とにかく、三成に会いにいこう!というわけで、今回のメインは佐和山と長浜・石田町、そして観音寺です。。
でもできれば安土城も水口も関ヶ原も行きたかったのです。(あれ?)

1日目


●水口城 9:30〜10:15
●安土町城郭資料館 11:00〜11:30
●安土城跡 11:40〜12:40
●信長の館 12:50〜13:20
●清涼寺・龍潭寺 14:10〜14:40
●佐和山城址 14:45〜16:00
●石田会館 16:30〜18:00



池袋から7時間半かけて大津に到着。
はじめての夜行バスだったからかずいぶん長く感じました。

(左)途中の草津(6:50)ではまだ真っ暗…
(右)琵琶湖大橋(7:05)だいぶ明るくなってきた…琵琶湖だ〜!でっかい!


大津唐崎で車を借りて膳所で近江大橋を渡り、そこからほぼ東に約35km、目指すは甲賀市・水口城。三成が禄を折半して左近を迎えたという噂の場所を突撃です。



水口城 9:30〜9:45


甲賀市ってすっかり「こうがし」だと思ってたんだけど、標識見るたびに「koka」って書いてあるのだよ…こうかし?こうがし?甲賀忍者はこうがですよね…?あれ?
そんな事を思いつつ、約1時間で水口城資料館に到着。
けれども、ここに来てさらに大変な勘違いをしていることに気づいた私…。
水口城は2つあったのだよ…
今回私が行ったのは通称「碧水城」と呼ばれる方で、1634年 徳川家光上洛の折に宿館として築城されたもの。私が見たかったのはもう一つの「水口岡山城」でした…ざんねん!
資料によると三成水口城4万石時代に・・・とあったので、ここらへんで「左近、2万石出そう!」が出たのかな!とドキムネしたわけです…が、のちのち調べるところによると、三成が水口城城主だったという史実は無さそうです)



それでも、きれいなお城だ…
明治維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたそうですが、1991年、出丸に櫓が復元されて「水口城資料館」になっています。

●甲賀市水口城資料館
開館時間:10〜16時
閉館日:月曜・年末年始
入館料:大人100円(小中学生50円)

すぐ隣は高校の野球グラウンドで、球児たちが通りすがり「チワす!」「こんちは!」と声をかけてくれて、なにやら清々しい気分になりました…笑 予定がたくさんあるので、10時まで待てず、資料館は見れませんでした。また機会があったら…というか水口岡山城も近くにあることが分かったので、また行きたい!

よりみち… 9:45〜10:10


さあ、次は安土城だよー!と思ってナビをセットしていたら、
ナビの端っこに「コメダ珈琲店」の文字が。ん…? コメダ!?
コメダってあのシロノワールが食べれる喫茶店?というわけで、ちょっとばかし寄り道しました。(急いでるのに…)

お店に入ると、まだ10時だというのに、満席!さすが…。
うわさに聞く「名古屋式モーニング」を一度体験してみたいと思っていたのですよ!…ですが!コーヒー以外にも色々注文したら「モーニングセットはいらないですよね?」と言われてしまいましt…
11時くらいまでなら、コーヒーを注文すると厚切りトースト、ゆで卵、サラダがついてくるそうです。太っ腹!! あと、豆が…ついてきます。


ミニシロノワールと、オレンジジュース。
フタ付きのガラスびんに入ってきた…笑 豆もついてきました。

安土町城郭資料館 11:00〜11:30


コメダを出て約1時間、天気が怪しくなってきました…。この雲に追いかけられるように安土に到着。


JR安土駅前に車を停めて、駅に隣接する「安土町城郭資料館」へ。
ここで信長も飲んだらしいローマコーヒーを飲みながら安土紹介DVDや1/20で再現された安土城模型を見て妄想を膨らませると良いと思います。屏風絵風陶板壁画や中世の安土に関する資料がたくさんあります。



右側は信長公!? 当時の宣教師が描いた信長の像で最も似ていると言われているそうです。リアルー!
昔の肖像画だと、どれも似たような絵柄で、家康も政宗もちょっと見分けがつかない感じなので、あれから本人を連想せよ…と言われてもちょっと難しい話なのですが、これを見た瞬間、「信長って本当に居たんだ…」と実感しました。こういう人居る!美形ですね!できれば三成も見てみたいよ…

●安土町城郭資料館
料金:大人200円(コーヒーとセットで400円)
時間:9:00〜17:00(入館16:30)
休館:月曜日  年末年始

信長公はお相撲が好きだったんだそうで、これは駐車場(駅前広場)にある、相撲櫓。相撲なのに、なぜか異国の情緒漂うような…


安土城跡 11:40〜12:40


JR安土駅から車で5分ぐらいで、いよいよ安土城跡(大手口)に到着。

織田信長が天下統一の拠点として琵琶湖岸に築いた大城郭、安土城。
1579年に完成した全山総石垣、五層七重の天守をもつこの城は、それまで誰も見たことの無い豪華絢爛なる城だったと言われています。また安土城は、石垣を多用して縄張りを行う近世城郭のはじまりとも、本格的な天守建築のはじまりともいわれているようです。
当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成して造られた安土城も、本能寺の変後、築城からたった3年で焼失。その後、長い年月の間に瓦礫と草木に埋もれた安土城にはじめて調査の手が入ったのがなんと昭和15年(!)というから驚きです(゚ ゚) つい最近まで埋もれてたなんて…!


私の中では、安土城はなかなかメジャーな観光スポットなのですが…
土曜日なのに、人があまりにも少ない…



大手登山道入口で入山料500円を払い見上げると、どこまで続く…この石段?
この杖は持ってくべきか悩みながら1本拝借…


さて…と登りはじめたら、足元になんか書いてある。石仏っ!?


安土城は、山一帯を家臣の屋敷で固めたそうで、大手入口すぐのところに左右対で秀吉と利家の屋敷跡が!秀吉と利家は仲が良かったというけど、お向かいさんとは驚きだ…。
(上:正面 前田利家屋敷跡)

(下:正面 羽柴秀吉屋敷跡)


…この石段の幅の広さ分かりますか…
しかも一段一段が斜めになってて、なかなか、しんどいのだよ…なめてるとしんどいよ…
とりあえず、突き当たりまでいっきにのぼって、振り返る!
視覚から得られる充実感を次へのスタミナに換える!

向いの山は六角氏の観音寺城!安土城よりもっとずっと高い繖山です。今度は覚悟して来よう…



まだまだ続くよ…
そろそろ息が上がってきて、下向いて登っていたら足元にまたしても石仏出現。

「大手道跡の石仏とは」
この石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものです。城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石等も含まれていました。出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示す為に発見当時の状態で保存しています。趣旨をご理解の上、見学してください。(滋賀県教育委員会)


ということだそうです。ふ、踏まないように気をつけなくちゃ…

のぼり始めて10分経過… まだまだ…?


ちょっと登っては振り返って、…充実感を次へのスタミナに換える!


えっ…あと190段もあるの…
ハァハァ言うのも最初は恥ずかしいので、下りてくる人とすれ違う時は息を潜めたりしてたけど、もう盛大にハァハァです。あ、あと190段…っ!!はんぱに長いよ…せめて100段とか…(きっと、ここで諦める人もいるよ…)

蘭丸のお墓もここにあり…(荒れてるよ…)
この辺にくると、もう石垣がなくなります。ちょっとは歩きやすい?



さらに10分、黒金門、本丸跡をすぎると、やっと天主台跡に到着…!
ここに、地下1階、地上6階の天主があったのだ!さっき見てきた模型をこの景色にサルベージ。


安土城だけは「天守」ではなく「天主」と書くのだそうです。意味深だ…
石垣にのぼると、景色がすごいー!
ひろいー!平らいー!奥は見渡す限り、琵琶湖!ひろッ!空気がおいしー!
写真だと全然伝わりません、この高揚感。あまりの景色の良さにテンション上がります。のぼってきて、よかった!



下り道は〓見寺跡行きの道をいってみることに…。
するとまたしてもすごい景色!


び、琵琶湖?! と思ったら西の湖(内湖)というそうで…水の中に浮かんでる島のように見えます…スゲェ  三重塔を横目にどんどん石段を下っていきます。すごい急な石段だ…
下りは楽だけどコワイ。息は切れないけど、全然楽じゃない。



これは、たぶん〓見寺の二王門だと思います。


立派な門!
門を過ぎると、まだまだ石段…のぼり始めて45分経過。
ようやく石段が消えましたが、なにやら道が細くなってきたよ…誰も居ないけど、大丈夫かい…



わー!ここに出た!秀吉屋敷跡にでた!(写真奥の茂みから出てきました)



無事に杖を返し、下山!! おつかれさまでした。
わ〜、もう、すごい石段だった!!
豪華な天主こそ残ってはいないけど、ここは、景色も満足度も素敵にお薦めです。
ちょっと石段が疲れるけども…(のぼり40分、下り20分ぐらい)



信長の館・信長ランチ 12:50〜13:20



安土城から、安土駅を挟んで逆側(観音寺城側)の信長の館・文芸の郷に移動。しかし、実は予定より1時間ズレ込んでいたのだよ…。  冬は日暮れが早いうえに、石田会館は17時くらいまでと聞いていたので、もうここで調整するしかない。そんなわけで、文芸の郷レストランでランチだけして、彦根に向かうことにしました。
観音寺城にも行きたいし、また今度こよう!



レストランでは信長ハンバーグ定食を食べましたぞ。
美味である…が、どの辺が信長なのでしょうか。南蛮野菜ですか。
他に、戦国焼肉定食などもありました!



13:20、彦根は佐和山に向けて出発ー!道路標識を見るだけでうきうきする!




ナビを龍潭寺にセットし、佐和山の麓へ1時間後到着予定。




清涼寺・龍潭寺 14:10〜14:40




安土を出て約1時間。とうとう、夢にまでみた佐和山の麓にやってきました…!

もう10数kmも東に行けば関ヶ原という東西の分かれ目に位置し、鎌倉時代の築城以来争奪戦が繰り返された要衝の地、佐和山。近江佐和山19万石といえば、石田治部少輔三成、最後の肩書きです。実際は政務に忙しくて、ほとんどは伏見の石田屋敷にいたようですが、それでもやっぱり三成ファンにはここは外せない夢の場所。

佐和山城は関ヶ原での西軍敗北による落城後、徳川四天王の一人と言われた井伊直政が入封。井伊家彦根藩は徳川幕府264年間で一度も国替えされることが無かったという特別待遇。信長や秀吉と同じく家康もやっぱりここに重臣を置いたのを考えると、相当、西方の毛利・島津を意識していたんだなーと何となく思うわけですが、関ヶ原で対立した毛利・島津が結局幕末になって連合して幕府を倒すことになったわけですよね。歴史って繋がってるね…すごいです。


…脱線しました。

結局、直政はすぐ近くの彦根山に彦根城の築城をきめて、その時に佐和山城の石垣や門なども全て運び出されたそうで、今では天守台跡からの眺めと、かつての石垣といわれている2つの巨石と、井戸などが残るのみ…。(発掘調査中なのだそうですが!)
それでも、麓には三成屋敷跡もあれば、左近屋敷跡は清涼寺!さあ、いざ参る。


踏み切りを渡ってすぐの駐車場に車を停めて、うろうろすると、案内板…


わー!ちゃんと佐和山って書いてある!

ちゃんとってことは無いだろと思いますが、ここに来て文字で書いてあるのを見るまではなんとなく、本当にあるのかな…と思う心もあり…
しかし、Aコース3.2km、Bコース4.6kmってなんだ… とりあえず、もよりの清涼寺から参ります。


・清涼寺 14:10〜

こちらの寺地はかつての左近屋敷跡なのだそうです!
普通の曹洞宗のお寺なのでふだんは公開しておらず、寺地内見学は自由だそうですが、なんとなく小さくなって見てまわりました。清涼寺には、左近屋敷時代からある大きなタブの老木があるそうで…タブの木がどんな木かよく分からないけど、多分これなんだろうと思います。





真っ赤な南天がとてもきれい!



これはなんだい…足型?


・龍潭寺 14:20〜

清涼寺のすぐとなりが、臨済宗(妙心寺派)龍潭寺、通称庭の寺、またはだるま寺と云われるお寺です。
ここも清涼寺と同じく井伊家の菩提寺で、こちらの茶室は佐和山城の城門を利用したと言われています。三成ゆかりの展示もたくさんあるらしい…そして寺裏は佐和山登山口!


旅立って、はじめての三成公!やっと会えました。もちろん、月代を剃っていても好きなのだよ…笑
ここでひとしきり、今までの思いを胸に、三成像に語り掛ける。(…)


庭園も有名な禅寺で、かつてはお坊さんの庭園大学だったそうな!そして、またしても足型をとったような石を発見。「佛足石」と書いてあります。

佛足石とは、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象としたもの。…両足を揃えたものがより古い形式のもので、片足のものは比較的新しく紀元後のものと考えられる。(wikipediaより)





とても静かで、思いに耽るにはなかなか良いところだと思います。縁側にこしかけて、しばらくぼーっとしたいけど、山登りが待っているのでまたいつかきたい…


だるま寺らしく、だるまがいっぱい!4/1、2はだるま祭があるそうです。

順路に従って進むと、三成の刀の写真や絵巻物などいろんな資料が展示されているのですが…っ カメラがうまく機能しないほど暗がりにあるので、ぜひ足を運んで見てください。資料などによく使われているこの三成像は、この龍潭寺所蔵のものだそうです!


おひげ〜もすてき〜



佐和山城址 14:45〜16:00




龍潭寺を出て、どこから山に登れば良いのか庭をうろうろしてみたけど分からず、もう一度戻って受付の人に聞いてみると「この裏の…まあお墓なんですが、その奥から登れますよ。20〜30分ぐらいでしょうけど、昨日まで大分雨が降ったので、道は悪いと思いますよ」という事。ありがとうございます!お寺の裏手に進むと、なんともくすんだ看板が登場…


見てもいまいちよく分からないので、とりあえず行ってみよう。



進むうち、ちょっと心細くなる雰囲気です。ほんとに墓地の中がハイキングコース入口なの…!?
墓地もだんだん、墓石がまばらに、しかも古い感じの…誰かが御参りに来る様子もないような感じに…

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「佐和山登山道」と書いてあります。ハイキングコースじゃない。プチ登山です。
うわあ…道が無い… 事前に登った方の感想を読んでいたので何となく覚悟は出来ていたつもりですが、枯れ葉に落ち葉だらけの今の時期でさえ道なき道を手探りで進むというのに、夏は…と思うと恐ろしい。いきなり結構な急斜面になるのと足場の悪さで、早いうちから息が…


人間ひとり分の幅ほどの道のすぐ脇は、絶壁ですよ殿!



わ〜視界が開けた、と思ったら、尾根に出ました!登りはじめよりは大分安定した道になってきた様な気がします…。弁天さん…大洞弁財天からも登れるんだね…それは何コースなんだろ…(Aコース3.2km、Bコース4.6km)頂上まで、600m!600mって、どれぐらい!?ここまででも、悪路と心細さに道々引き返そうか行こうか悩みながら来ていたのですが、どうしよう。でもせっかく来たんだから、行ってみよう!と決意した私に新たなる試練が…っ



ええええええ…

ちょうど私の胸の下ぐらいの高さのせいで上を跨げもせず、下をくぐるにも膝と手をつくのは必至で、行くなと言われているようでめげる… でも諦めないよ…!下をくぐって先に進む!!数分黙々と登ると、小さい標識出現。
「左、塩硝櫓」とあるので行ってみます。



塩硝櫓跡から鳥居本方面を望む。
ススキや枯れ木などで決して視界は良くないのですが、左右周りをよく見渡せる場所にあるなあ…と思いつつ足元を見ると人のう○こさんを発見…!! なぜ分かったかというと、上にティッシュが載せてあったからです…笑
だから下に「トイレはありません」って看板あったのに…
まあ、便意には逆らえませんよね… まさか三成だったりして…(…)
ってことは、誰か前に登ってる??誰一人として出会いませんがっっ

ここの茂みを前方に下ったり上ったりした所にある三の丸に、左近は詰めていたという話です。麓の屋敷から毎日!?左近…健脚だね… 行ってみたくても、まだまだ発掘調査中?道らしきものが全く見当たりません。



塩硝櫓で人の気配を掴んだものの誰とも出会わず、一人でなかなか心細いので、本丸への登城道を左近に案内していただきます。



振り返ると、琵琶湖!琵琶湖が近い!琵琶湖でかっ!わー!向う岸が見えない!!



またしても、きわどい道幅・絶壁コンボです…。カーブの先に何か動物が待ち構えてるんじゃないかと、そんな不安もあり冷や汗もかく。でもなんだか、道脇の木々が無くなって視界が開けてきたので頂上が近そう…と思ったら…!



着いたーーーっっ

やったーー!やっと頂上に…!!!
232.5m!!!(比高は半分くらい…) 下から20分でした!
ここに、三成に過ぎたるもの…とまで言われた立派な五層の天守がそびえていて…この眼下には、やっぱり三成に過ぎたるものと言われた左近の作った百間橋が琵琶湖の内湖にかかっていて、それらを自慢げに目を細めて見つめる三成が居たんだなあ…と思ったら、今の景色とあまりの差を思ってちょっと、泣けました。
だってもう、何にもないの。たった400年ちょっと前まではあったのに、同じ頃作られた彦根城は向い側にちゃんと残っていて、しかも今年は築城400年祭。こちらには、石垣だったといわれる岩が2個残ってるだけって…この差は本当に。



戦国時代の終わり、秀吉の死後まもなく三成とともに露と消えた佐和山城ですが、山だけでもこうやって残っていて良かったです。遺構や城のつくりなどから十分に昔大層なお城だったんだろうなあと思えるし、大手側には旧中山道・鳥居本宿が、麓には立派なお寺も残って、近隣の各寺院には佐和山城の城門が移されて残っているわけです。

三成がほんとうに400年前にここに居たことは夢ではない、と思える色んなものが、壊されて何にもなくなってしまった佐和山周辺にはあって、ここまで来てよかったと思いました。大変だったけど、良かった!
三成は、いまもこの枯れた佐和山を駆けまわっているといいなあ、そんな妄想をしばし…(お菓子を食べつつ)



武士と書いて、もののふと読むのですよ。


ひと気も全く、無く日も陰ってきて影も長いし、なんだか哀愁の色合い…


すぐ向うまでゴルフ場が迫ってるよ…!


さて…思いに耽ったら次は観音寺、石田町が控えているわけで、時間ももう15時すぎてる!ということで急ぎ足下山しないといけません。しかし急げるわけは無く……知っていますか。山は上りより下りの方がキツイという事を…!膝がガクガクするだけじゃなくて、坂ってのは見上げると大したことなくても、見下ろすとすごい崖のように感じるのですよ…それに落ち葉が滑ってこわい!

順路は2択…元来た道を戻るか、未知の道を行くか。
元の道を戻れば駐車場は近いんだけど、途中、滑って木の枝につかまって無理矢理登ったようなポイントが何箇所かあったので、ちょっと、そこを下りる自信がありません…という事で、知らない道に賭けてみました。

結局、それが佐和山トンネル側に通じるハイキング道だったわけですが、やっぱり、こっちの方が楽でした…(ほ) 落ち葉を踏んで滑ってズサーッって尻滑りになったりしましたけどね…
これ、ほんと草木生い茂る夏は無理です。(二回目)蛇とか虫も相当いるだろうなァ…



距離的には短いのに、どうしても坂が怖くて下りれない。
ブーツだったので、下り斜面が余計にコワイ。(…) 藪の方には蛇も出そうでもっとコワい。落ち葉も濡れててとても滑ります…。なんとか滑り下りると、天守閣の石垣への案内が…


これかな…?! ちょっと自信ないですが、他にそれらしいものがなかった!
たったこれだけ… そしてこんなに土に埋もれて…
苔生す石垣の方が、京都の手入れされた庭園の石苔よりもよほど雰囲気があります。


ほらね…のぼり道より道らしいでしょ…
しばらく行くと「下山」「千貫井を経て下山」という標識が登場。…。どちらも下山できるなら、寄り道して行けば?というお誘いです。この標識から下の写真の井戸まではほんとうに僅か数メートルくらいの距離なのに、これがまたなかなかハードな坂で、濡れてなければ何とかなりそうでも、今日はちょっとしんどいです…


「千貫井戸」
石田時代、城中の飲料水として用いられ喜ばれた有名な井戸です。 お金の千貫目にもかえがたい貴重な井戸と云うので、かく命名された。
祖先が苦心して作った大切な井戸、みんなで美しく保存しましょう。・・・



ここに下りてくるのと反対側に、女郎谷という、佐和山落城時に女の人たちが身投げをした谷があるそうなのですが、体力も…また登って下りれる自信も無かったので諦めました。



やっぱり、こちらの方がだんぜん楽…(道がある)
ちょっと殿に下山案内を…ほんとに誰もいないです。なので、ほんとにこの道で合ってるのかも不安に…



竹だー!なんだか、竹が見えてくると人の気配を感じて安心する…!



竹の茂みの中に何だか発見…なんだろう?



わーーーーーい!出口です!やった…!
佐和山登山無事終了!…ってあれは何だー?!


元きた道とは違ってゴールがどの辺か見当が付かないだけあって、細い視界の先に人工建物が見えたときは本当に安心した…!わ〜い!やっと下りて来た〜!道間違ってなかった〜!という喜びはそのまま爆笑に…。なん、あれ、金閣寺?!なんだか仁王像のようなものも見えます…一角獣??!



近付くにつれてどこか様子がおかしい建物群が次々に登場…お城、金閣寺、五重塔、観音像、… これが有名な(笑)佐和山遊園でした。あ〜、どんだけ!ちょう癒された!電話ボックスの大きさと対比して貰えると、巨大な建造物群だという事がわかって頂けると思います。





取れてる!!!! 三成取れてる!!!! (笑)

三成好きな人が好きさ余って作ったのでしょうか。佐和山の麓に、それもハイキングコース(というか登山道)を終えた人に脱力感と笑いと癒しを与えてくれるような場所に作れるとは、きっと造り甲斐もあったことだと思います 笑

そして、いま登っておりてきたコースを確認。何コースだったの?



(クリックで拡大) Cコース…っ?!AとBだけじゃないのかい…(結局何kmだったの)

さて、やっと車がビュンビュン通る道路に出たので安心したのはいいですが、初めに車を置いた場所とは完全に景色が違う… ここはどこだ…このとき、すでに15:30。(予定ではもう観音寺に行ってる時間)
タクシーをつかまえようにも、1台も通らない…
すぐ側はトンネルです。佐和山トンネルです。きっと山の反対側に下りてきちゃったんだ。しかものぼりより緩い坂だったから、ちょっと遠くに来てるはずなので、のんびりしてる場合じゃない!ということで、携帯ナビ発動、GPSを頼りに、住宅街をにょろにょろと30分かけて清涼寺まで戻ってきました。

戻る途中で三成屋敷跡を通り過ぎてるんだけど、余裕が無くて全く気づかなかったです。(次きたとき発見!)
涙と汗と変な疲労でグダグダなまま、古沢陸橋からさっきの佐和山トンネルを抜け、一路長浜へ…


石田町・石田会館 16:30〜18:00



計画通りにはなかなか行かないもので、だんだん日が暮れてきた焦りと疲れと高揚感でおかしな様子で長浜に向かう途中、西円寺の三ツ又交差点で、左に行けば長浜、右に行けば関ヶ原という分岐に遭遇し、テンション復活。えー!関ヶ原ってそんなに近いの?!
うっかり行きたくなってしまうけど、時間が無い、急げ石田町!



16:30、ようやくナビに設定した「石田町主要部」周辺に着いたものの…
石田会館の場所が分からない…(…) 交差点の角にある酒屋さんで聞こう!と思って入ったら、あれっ!「戦国の智将 石田三成」というお酒がー!うわ〜!飲めないのに買ってしまった〜!料理酒にも使えるでしょ、ということで…。


この旗印のシール欲しいなあ…
ついでにお店のおばちゃんに石田会館の場所を尋ねると、すぐそこだって。車をとめて歩いて行ってみました。


石田正継

ここ石田村の地侍(村長)で京極家に仕えて、文武の才を備え、和漢に通じた。幼少の三成に学問と礼儀を身につけさせるため、隣村の観音寺(現坂田郡山東町朝日)に寺小姓として預けた。後年近江三万石、堺奉公代官、佐和山城代として活躍。「関ヶ原の戦い」の時には佐和山城を守っていたが三成が敗れたあくる日、東軍に攻められ落城、自刃して果てた。


わあ〜なんだこれ!外灯に名前と人物概要が書いてあります。
石田正継は三成のお父さん!他にもありそう ???! でも、見渡す感じでは無い…



酒屋さんから2,3分で石田会館に着きました。
もうすでに薄暗くなってきたけど、まだ会館開いてるよね…と事前に閉館時間を電話で聞いていたとは言え、ちょっと心配。なぜなら、エントランスが薄暗いのだよ…でも部屋に灯りがついているので、誰か居るみたいです。安心して、庭の石碑などをカメラに収める。


「石田治部少輔出生地碑」と、三成公像!
こちらの住所、”石田町治部”だなんて、素敵ですね…ここに住んだら、住所を書きたさにきっとたくさん手紙を書くね…そして、こちらの三成公、大徳寺に葬られている公の遺骸と、ご子孫の家に伝わる肖像画を参考に彫られたそうです。一番似てる???
またこの石碑は、昭和16年「石田三成公事蹟顕彰会」が発足されたときに建てられた碑で、題字は当時の文部大臣のものだそうです。他にも文学博士だったり県知事だったり、吉川英治、西郷隆盛、水戸光圀などなど、三成を慕った人はたくさんいたのです。

約260年も続いた徳川幕府の開祖たる大権現の敵だった三成が、その後徹底的に悪者扱いされたことは言うまでも無く、今でこそ三成の汚名を晴らすべく色々な本が発表されていますが、それでも学校の教科書レベルでは「家康と敵対して天下を取り合って負けた将」くらいの扱いだったと思います。私なんて、どうしてゲームの主役クラスに三成が出てくるのか不思議に思って、それで調べるきっかけになったくらいです。調べてみてびっくり。自分の中の認識をこんなに変えられるとは思ってもみませんでした。
そのくらい、長い年月をかけて「三成=奸臣」というイメージが強く世間に植えつけられてしまった。
でも、諦めても仕方ない圧力もあった中で、400年経ってもこうやって「それは違う」といい続ける人がいるなんて、すごいことだと思います。これだけ、強く思われてる武将って他にいるのかな…



↑吉川英治の句碑


↑西郷隆盛の詩碑



この石田町には、三成に関するいろんな未知がつまっているようです…。
やばい、ここにはもっと時間が必要だった…



会館の中では顕彰会や町内会の方々が会合をされていて、迷惑でなければ資料室を見せて頂きたいと伝えると快諾頂いたので、さっそくビデオ鑑賞させて頂きました。いいなあ、あのビデオ、他でも見れたらいいのに…と思いつつ、真田昌幸に当てた手紙や、龍潭寺にあっても薄暗くてよく見えなかった写真などを見てまわりました。龍潭寺で薄暗すぎて写真に写らなかった展示資料がここでも見れます!嬉しい!


「戦国を疾走した三成」パネル
ほんとうに全国飛び回ったんだ…電車も飛行機も無い時代に、と思うとすごいです。全部追いかけて行ってみたいけど、日本百名城踏破するのとどっちが早いかな…一生かけたライフワークになりそう…



このビデオがもう一度見たいです。2000年の没後400年の記念に制作されたそうです。関ヶ原で売ってるDVDとは違った!
京都大徳寺でちょうど100年前に発掘調査が行われた時に出てきた三成公の遺骨と、それを元に復元された模型(もうちょっと目が細いイメージでした…)。
「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当、身長156センチ程度」(wikipediaより)ということで、線の細い小柄な風貌は本当のようですね。でも156センチって、戦国時代なら普通では?190センチもあって馬に乗ると地に足が着くとか言われた加藤清正が大きすぎです…(でも本当は清正も約161センチだったという話も?)

しかしまた、どうしていきなり発掘することになったんでしょうか。いまは大徳寺三玄院も非公開で、見ることは出来ません。


↑「慶長5年(1600)7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状」

(300余年極秘文書として扱われた石田三成密書)
昌幸は大坂方に応じる旨を、7月21日付けの2度の書状で、近江国佐和山城の石田三成に申し送った。その書状が27日、佐和山に到着、それに対する三成の返書である。
内容は先ず、昌幸に予め相談なしに挙兵したことを弁明し、次いで昌幸等の妻子は信繁(幸村)の義父大谷吉隆(吉継)が預かっていること、以下軍略等について告げ11ヶ条の事書になっている。
真田家では、長持の底に秘めて300余年秘中の秘、門外不出の文書として取り扱われた。



また、三成の直筆の書状も展示されています。(写真で展示)
こうやって肉筆を見ると、本当にその人が存在したんだなあと感じる…特に字が乱れていればいるほどです…笑 習字をやっている人は読めるのかもしれませんが、私にはまっったく読めません。たまに「石」とか「百」が見分けられるくらい…読めたら楽しそう。


説明書が無ければ、何の文書だったかも思い出せない…


三成の花押!いいなあ〜一番力が入ってますね!
書き損じないように神経を張り詰めて書ききり、最後に仕上げの花押を入れる為に筆にぐっと力を込める三成が浮かびます…笑


いや…字の乱れっぷりが、文書によって大分違う(笑) 相当いらいらして書いたのか、急いでいたのか、親しい人宛の手紙だと気を使わないのですかね 笑
政宗の字と比べると、ほんとに個性が出る。

(↑仙台市博物館で見た政宗の百人一首写し)

顕彰会の方々がたまにちろっと様子を見にこられて、お茶を貰ってしまった…長居してスミマセン!石田三成に興味があるのか、とか、どの辺が好きかとか、どこから来たのかとか色々聞かれ話すうちに外は真っ暗。冬の18時じゃしょうがないけど、これでは何も見えないので姉川に行っても仕方ないし、観音寺も明日にすることにしました。
顕彰会のみなさま、ありがとうございました!


まだ18時なのに…冬は時間が短くてもったいない。
彦根で車を返すのが20時。ここからだと急げば30〜40分で着いてしまっては早いので(早く返す分には問題ないけど…)、明日行く小谷城付近まで時間計測がてらドライブすることにしました。(いや…でも真っ暗でほんと、ほとんど意味なかった)



湖岸道路を通って長浜から彦根に戻ってくる途中、「筑摩神社」という標識を横目に通りすぎ、あれっ筑摩って…三成の辞世の句で読まれた筑摩江のことなのかな〜と思ったりしました。生きて大志を果たす為に、自分の命を最後まで大事にした三成も、自分が死ぬ時の事をふいに思って歌を詠むことがあったんだと思うと、なんとも物悲しい気分になります。

そして、彦根で車を返す頃、突然どしゃぶりの雨に…!ええええ…
レンタカー営業所の方に駅まで乗せていって貰いました。ありがとうございました…☆


彦根から1つ隣の駅に行こうと改札を入ると、なんとホームで40分待つことに…。山手線や都営地下鉄の電車の本数に慣れていると、大分感覚が狂うんだ…とヒシヒシ感じました。電車の時刻表は確認しないとダメです。次から気をつけよう…
気づいたら晩ご飯食べてなかった……けどももう今日はいろいろと胸がいっぱい。明日は、彦根市内さんぽからです。


2日目へつづく!

タグ:[【人】石田三成][【人】織田信長][【人】島左近][【県別】滋賀県][*三成関連]
日時:2007/01/27 00:00
分類:日程別:2007

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