2日目です。昨日の夜から降り続いた雨も、起きたら止んでる…!この調子で一日晴れることを祈りつつ、今日は彦根城と、昨日暗くなって回りきれなかった石田町・観音寺・姉川古戦場、あと小谷城に行く予定!
●彦根まち歩き 9:00〜11:30
●彦根城・玄宮園 11:40〜12:40
●長浜まち歩き 13:20〜14:40
●石田町 15:00〜15:15
●観音寺・三成水汲みの井戸 15:25〜16:15
●姉川古戦場跡 16:25〜16:35
●小谷寺 16:50〜17:15
7:00 起床。どうして旅行の朝は早く起きれるのだ…
朝食付き(早い者勝ち・笑)のビジネスホテルですが、ご飯がすごい!
給食みたい(笑)おかずたくさんで嬉しい〜 もたもたしてては時間がもったいないので、早めにチェックアウトして南彦根駅に行きましたが、な…なんと電車が30分来ない…!またしても! 一駅5分…隣駅への移動の為に30分待つのはなんとも納得がいかなかったので、タクシーで彦根駅まで移動しました。
8:30 彦根駅前で車を借りて適当に市内を巡回しつつ、お城に近い駐車場に車を停めて、自分用と頼まれ物のおみやげ狩り開始。ところが…!
お店が開いてない…
まあ、9時なのでちょっと早いかなあとも思いますが、まず人が、歩いてない。日曜日なのに???でも人が居ない空間は嫌いではないので、しばらくぶらぶら散策することにしました。
こちらは四番町スクエア。
区画整理された石畳の雰囲気のよいところです。しかしお店が開いてない上にひと気がないので、また日中は雰囲気もずいぶん違うんだろうな… なんだか、ドラ●もんの道具で自分しかいない鏡の世界に来た気分。今回の旅行、行くところ行くところほんとに人がいない。まるで、週末のオフィス街です。。。
四番町スクエアから1本奥に入ったところ。
お寺が並んでいます。ここも石畳が整備されていて中々よい雰囲気!
あっおばあさん発見!よかった〜人がいた…
「いと重菓舗」
和菓子屋さんは朝が早いだろうと思っていってみたら、開いてました!ここでおみやげに彦根銘菓「埋れ木」を買いました。彦根城第十三代藩主・井伊直弼大老が若き日を過ごした侘び住まい「埋木舎(うもれぎのや)」に因んだ名前のお菓子で、「手芒豆を炊き上げた白餡を求肥で包み、和三盆糖に抹茶を加えてまぶした和菓子」だそうです。繊細なお菓子だよ…
「夢京橋キャッスルロード」
こんどは四番町スクエアから1本逆側に出ると、ここがメイン通り。
やっぱり電線・電柱がないと景観は随分違います。
ロウソク屋さんのディスプレイ!かわいい☆
お手洗いが「厠」!すてきな工夫!
しばらくしてお店が開きだしたので、さっそくお茶タイム。
酒屋さんの前で左近の説明板を発見!!!
「鬼の左近」
石田三成家臣 島左近清興(しまさこんきよおき)
「治部少に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謡われ、当時4万石の身代であった三成が、その半分の2万石の高禄で招いた武将。
「日本第一の勇将」「鬼神をも欺く」勇将とたたえられた。そのずば抜けた采配の中でも関ヶ原の決戦前日、僅か500名の兵を率いて戦った奇襲作戦「杭瀬川の戦い」は、西軍すべての兵士達の動揺を一気に抑え、士気を大いに高めた勝利として高く評価されています。 彦根左近の会
わ〜!すごい…井伊家彦根藩は彦根城の、築城400年祭がまもなく始まろうとしている彦根なので、おそらく三成の文字を見ることはほとんどない(あえて避けられてるような気も)と思ってましたが、まさか左近の文字を見るとは!そして…彦根左近の会って…?!?
びみょうにお酒が飲めないので、どうも酒屋さんには入りづらいのですが、入ってみると、アッー! 左近のお酒もあるではないのーー!!それにその隣は昨日石田町の酒屋さんで買った三成のお酒ー!!わああ、ここのお店の方はきっと三成と左近が好きなのだね…!と思って思わず嬉しくなりました。
買おうか悩んでいると、ご主人にお酒の説明をして頂いてしまい…「どちらも辛口なんですが、三成の方が飲みやすいかな?左近の方は、性格どおりちょっと、クセがある感じですね」ということ…それを聞いてわああ、このご主人はこの二人が大好きなんだなと確信した。私も好きなんです!!と思わず握手したい勢いで買ってしまいました。飲めないけど、料理に使う時まで部屋に飾ろう…
そして、この酒屋さんの道を挟んで向かいにあるのが「宗安寺」
この赤い門こそ佐和山城の表門を移築したと言われているものです。
(下調べ済み)
キャッスルロードいち素敵スポットです。ちょうどお坊さんが門を中へ入っていった…
「赤門礎石」
宗安寺赤門は石田三成公(1560〜1600)の佐和山城表門を移築したと伝えられ、馬に乗って駆け込めるように敷居がない。元禄時代の彦根大火にも焼けずに残ったが、平成八年に道路拡幅のため、およそ三百九十年ぶりに移動、この礎石はその移動前のものである。
「馬に乗って駆け込めるように敷居がない」だなんて、さすがよく気の付く三成の城だけあるなあ…それに燃えないで残ったなんてすごい!当時のまま??しっかりと触らせて頂いた…
白猫…ひこにゃん…☆
キャッスルロードが想像以上に楽しかったので気づいたらこんな時間。本当は、お城は3月末からの400年祭が始まってからのつもりでいたけど、車で中に入ってしまったら行き止まりで…おばちゃんに誘導されるままに駐車場に入れてしまいました。。12時半頃には彦根を出ないといけないので時間が足りない気もしたけど、駐車場代も払ってしまったし、行ってみますた。
※ゆっくり見て回るには一時間だとちょっと足りないです。
彦根城は、今では全国に12箇所しか現存していない、安土桃山〜江戸時代にかけて建造された天守を有する城郭の一つで、国宝4城の1つ。今年築城400年目ということで、2007年3月21日〜11月25日までお祭が行われていました。今回はまだお祭前のフライングだったのですが、ちょうど人もそんなにいなくて、良かったです。
「城の形式は連郭式平山城。城の北側には玄宮園・楽々園(国指定名勝)という大名庭園が配されている。多くの大老を輩出した譜代大名の名門、彦根藩井伊氏14代の居城であった。(wikipediaより)」
さて、キャッスルロードからお堀を渡り、身長の2倍以上ありそうな石垣に囲まれたお城へ向かうと…すぐ中が入口かと思ったのに、入口らしいところがまったく見えてこない上に、中にもまたお堀と石垣があるよ!高校があるよ ???
さっきのが外堀で、これを内堀とすると、外堀と内堀の間に裁判所、高校などがあるのですよ…お城の中に通学だよ。すごいね…!
えっ…桜っ?!(1月末です) 二期咲きの桜なんだそうです。
彦根城への入口は表門と大手門とあるようです(まだあるかも)が、駐車場が近かった表門から。キャッスルロードから、この表門まで歩いても5,6分かかるのでは…
奥に見えてるのが博物館で、左側の窓口で入城券を購入。
…もう慣れっこだよ!坂は!
石段なんて、昨日の安土城のお陰で、何が来ても怖くない。
「お城の石段」
彦根城天守へ登る山道は4箇所ありますが、その石段は非常に登りづらいと言われています。もともと城への石段は、万一敵が攻め入った場合、歩調が乱れ一息で登れないよう、意図的に不規則に造られているものです。お寺の屋根のように、最初はゆるやかな登りが、登るにつれて斜度が急になり登りにくくなったり、踏み幅や踏み高を微妙に違わせて一定にせず、敵に対しては足元に注意を向けながら登らせ、上から攻撃しやすくしているのです。
という説明書きの看板がありました。なるほど…上のほうでだんだん急になるってことだね…頑張ります。
上が見えてきました。アレッ この景色見たことある!!時代劇ロケでよく使われるんだそうです。見たことない?
これこれ!江戸城へ登城するシーンとかでよく出てきます。
たしか「関ヶ原」(TBS)でも出てきたような…気がします。
ぐるっと回りこんで登ってきました。
これが長浜城のものを移築したと言われている「天秤櫓」です。うん見たことある。
この天秤櫓、右と左でもびみょうに石垣の積み方が違う気がしますが、上部と下部でも明らかに違う。これは江戸時代後期に大修理が行われた時に半分積み直したためだそうで、「向かって右手側が築城当初からの"ごぼう積み"、左側が新たに積み直された"落し積み"」なんだそうです。いろんな積み方があるんだね…どうやって積んだら、こんなに隙間なく平らに積めるんだか不思議です。ぐらぐらしないの???
まだ登るのか… と思ったら、なにやら鐘の音が…12時か!
ここで衝いてたのですねー!お茶屋さんがある!我慢!
太鼓門櫓を過ぎ、最後の虎口…がんばれ!
さすがに、息が切れる…
天守台についたー! あれが彦根城天守閣!
数少ない現存天守ということで、ぜひ中に入ってみたかったのですが、なぜか中に入らず…(時間が無かったから)天守閣とは逆側の展望台に行ってみました。
桜が咲く頃はとってもいい景色だろうなア・・・
見晴らしさいこうー!琵琶湖でかっ!
ちょっと霞んでよく見えませんが、とてもアレが湖とは思えない。
海と間違えても仕方ないのに…昔の人は間違えなかったのかい…
そしてそして、昨日登った佐和山です!
わーーー!よく見える!よく見えるだけに、ちょっと切ないよ…。
かつてはあの頂上に5層の天守があったのね…
こうやって離れてみると、距離感が良く分かります。
昨日は左端の麓・龍潭寺(写ってないけど)から登って、右端の佐和山遊園におりてきました。。なんつう距離だ…やっぱり下りの方が緩やかで楽なだけありますよね… そして、佐和山遊園からまた龍潭寺まで歩いて戻ってきたんだよ。よく歩いたよ…
すごい城構えです… 高いところから見渡せるって良いですね。
外側の点線が外堀で、手前が内堀。
昔住んでた所の弘前城も相当大きな城構えだと思いますが、平城だし天守もそう高くないのでここまで敷地を見渡す事は出来ません。
さて、景色に満足したところで、わァ!あと10分!?
下山コースに入ります。
こちら、西の丸の三重櫓。
小谷城の天守を移築との説もあるようですが、これはちょっと疑問???
さあて…またしても石段な下り坂。やっぱり、下りがしんどい。
途中で、ここにもタブの木がありました!
タブの木ってどんな木?ここに来てはじめて聞いた…
下まで下り切ったら、お堀沿いに少しあるいて玄宮園へ。
楽々園とも言われているそうです。
中々広大な庭園で、お茶会なども開かれるそうです。
やぱりあんまり人がいない彦根城でした。おかしい…日曜なのに…お祭期間前だからかな…。時間があれば天守閣に入りたかったですがまた今度!
さて、車に戻って次は長浜・石田町へ向かいます!
13:15 長浜に到着。
道が空いてたけどやっぱり30分はかかる。
こちらはなかなかの人出です。お陰で空き駐車場探すのに苦労しました。まずは、駅前の出逢いの像へ!
わ〜!ひっそりと佇むお二人を発見しました。
佐吉少年…初々しい!
長浜は、去年の大河(功名が辻)でたいそう観光客が訪れた事だろうと思いますが、綺麗にレトロモダンな駅舎のすぐ目の前だというのに、なんだか…目立たない秀吉と三成の「出逢いの像」。
「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」
長浜城主の羽柴秀吉は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。秀吉公は、茶の入れ方一つにも気を配る佐吉少年を気に入り、召し抱えました。この少年が後の石田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も語り継がれています。
三成公は、ここから五キロメートル東の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も出生地辺りには官命にちなんだ治部という小字が残っています。 また観音寺には、茶の水を汲んだと伝わる井戸が残されています。
昭和五十九年(1984)
その出逢いの観音寺にはこの後、参ります。
という訳で、そろそろお腹がすいてきました…
長浜市街の観光要所「黒壁スクエア」に向かう途中、”北国街道”の文字を発見。”ほっこくかいどう”と読むなんて、つい最近まで知らなかったです。それも、功名が辻で関ヶ原決戦の回の時、ナレーションを聞いてはじめて意識したくらい無知だったのに… いまでは、この道を辿っていけば敦賀(大谷吉継)だな〜なんて思ってうきうきする北国街道ですよ(…)
この辺り一帯も地面が石畳風の仕上がりでなかなか素敵☆
北国街道安藤家。中も公開されてます。
お昼ごはんをどうしようか、けっこう食べ物のお店があるので悩んでいるうちに、どこも満席になってしまった…。せっかくだから、長浜ならではのものを食べたかったので、気になっていた”焼き鯖そうめん”のお店でしばらく待ってみましたが、ご家族連れで大賑わいで、お一人さまはあまり歓迎されないですかね…
せめて、写真にだけでも…と思ってレプリカを撮ってみました。
せっかくなので、せっかくなので、近江牛をたべよう!
「せんなり亭近江牛 橙」というちょっぴりお高い感じのお店に入りました。
夜はムリだろうけど、きっとランチがあるはずだ…
BSEが問題になってからぜんぜん食べてなかったので、本当に久しぶりの牛肉です。近江牛もはじめてです。ん?昨日の信長ハンバーグも近江牛だったかな?一人なのでカウンターでもいいくらいなのに、厳かに通された上の座敷で、これまた重厚な雰囲気を纏って出てきたビーフシチュー御膳さま。たまにだし、これくらいの贅沢はいいよね…
食べてみると、肉ってこんなに柔らかいんだっけ?!とおもうトロケ具合で、わあ〜これステーキだったらどんなおいしさなんだろう…と欲が出ました。(自制しました)
なぜなら、サーロインステーキ200g、9300円。新幹線で東京まで帰れそうな…
ご飯も食べて、「黒壁スクエア」をしばし散策。
ガラス工芸のお店が目立ちます。
あんこ入り草餅を炭火で焼いてる!
香ばしくて美味しかった!
こちらも、長浜名物?の麺屋さん(のディスプレイ)
あんかけのうどんのようなものらしいので、お昼ここでもいいかなと思って、「この黒いのなんですか」と聞いてみたら「しいたけです」というのでやめてみました。。それが特徴の名物なのに、それを抜いてくれとは言えない。
お腹もいっぱいになったところで、石田町に向かいます。
昨日、暗くなって見れなかった供養塔や石田神社を目指します。
石田町は長浜駅から5kmほどまっすぐ東に行くのですが、国道を越えた辺りから前方の視界がひらけてくると、山がはっきり見えてきます。雪をかぶった伊吹山がとてもきれいで、思わず車を停めて見てしまいました。
1400mもないのでそんなに高い山ではないのに、積雪記録でギネスに載るほど天候が荒れる山だそうで、日本神話にも出てくるそうです。日本を平定したヤマトタケルを倒すくらいだから相当強い神だ…。でも、こうやってちょっと離れて見る分にはとてもきれいな山です。山が見える暮らしってよいね…
そして、あの山の南麓は関ヶ原です。
15:00 伊吹山に見惚れつつ石田町に到着。
八幡神社脇の駐車場に停めさせていただき、昨日見れなかった三成の供養塔に行きました。
↑ 八幡神社
昭和16年に、この辺りの土豪だった石田一族の墓石と思われる五輪塔の欠片が八幡神社の地中から多数発見。恐らく関ヶ原の戦い後の徳川方による厳しい追求を逃れる為に壊され、地中に隠されたのではないかと言われているそうです。さらに、地元の人たちの間では、誰もここに近づけないように「触ると腹痛がおきる」等と言い伝えられていたとのこと。
昭和48年にはこの神社の裏に改めて墓所が整備され、新たに石田三成公及び一族家臣の供養塔を建立された…そうなのですが、昭和16年だなんてずいぶん最近のことでびっくりしました。また「毎年11月6日を公の命日として墓前にて慰霊法要が行われる」とあります。
↑ 供養塔入口
ここで、毎年供養祭が行われるのだそう。
三成辞世の句碑や、歌碑も置かれています。
持っていったお線香を置き、少しばかり手を合わせてこちらを出ると、神社で掃除をされていた昨日石田会館でお世話になったおじさま達に遭遇。「あれ、昨日の子だね?また来たの?好きだねェ」…えへへ。
0
そして、また武将説明板を発見!今度は別の人です。
磯野平三郎…ここに来なければ気に留めることもない名前でしたが、三成ゆかりの14人に選ばれてるので、覚えるとしよう… しかし14人て!他にもあるんだろうけど、どの辺に…と辺りを見回すと、わああああ、旗が!
なんてすてきな風景なの… すてきというか、落ち着く…
山がなければ、実家の周りとあんまり変わらなかったりして…
野焼きの煙の匂いって、どこも同じなんだ…笑
この道、ずっとまっすぐなこの道は「三成公グリーンロード」と書いてあります。笑 すごいなあ、でも歩いてる時に見つけてよかった。運転中だったら脇見できっと田んぼに落ちる…
わアア〜またあった!今度は、真田昌幸!(幸村はないかな…)
なんで昌幸なんだろう…と思ったら、わー、三成と昌幸の妻が姉妹だから、義兄弟になるんだ!ってことは、幸村は三成の甥っ子!?ええ〜?!7歳しか離れてないのに…
昨日発見した石田正継(父)とあわせてまだ3人…。
あと、11人見つけないと!と思いながら、三成公グリーンロードを通って、観音寺へ!
15:30 三成グリーンロードを突き抜けて、坂を登ってトンネルを抜けたらすぐでした!近っ!山を越えたらすぐです。幼少時代、三成はこの観音寺にて寺小姓をしていて、長浜城時代の秀吉に見出されたという説が有名な観音寺へやってきました。
三成水汲みの井戸があるそうな?
近くに車を停めさせていただき、寺門の説明書きを読んでみる。
近江西国十二番 「観音寺」
観音寺は、伊富貴山観音護国寺といい、弥高・太平寺・長尾寺の三ヶ寺と共に伊吹山四大護国寺の一つとして伊吹山中にありました。鎌倉時代中期の正元年間(1259〜1260)に現在地に移ったとされ、千手観音立像(町指定)を本尊とする天台宗の寺院です。
また、豊臣秀吉が鷹狩で立ち寄った際、寺の小僧をしていた石田三成を「三碗の才」(お茶が飲みやすいように三回に分けて出したこと)で見出したことでも著名で、その水を汲んだとされる古井戸も残っています。
重要文化財 木像伝教大師座像・本堂・鐘楼・惣門
県指定 観音寺文書
町指定 絹本箸色浄土大曼荼羅図・木造千手観音立像
― 平成八年三月 米原市教育委員会 ―
ちゃんと三成の三献茶のことも書いてある!
それになにやら結構歴史の古いお寺のようです。
国の重要文化財指定のものがあるなんてすごいね…
(クリックで拡大)
かつては大寺院だったようで、総門から本堂までのこの長い参道の両側にはたくさんの坊があったらしい…
お寺の総門を入ると、あれっまだ行くの?
つき当たりまで結構ある。総門の内側にも住宅があるようです(不思議な感じ)。坂をのぼる途中「本坊」と書いてある建物があるけど、ひと気がない…誰もいないような雰囲気。
階段をのぼりきると、思ってたよりずっと広い!
がんばって写真繋げてみました。
中央が本堂、その右奥が薬師堂、右手前が鐘楼、いずれも重文です。
鳴らしたい…
ここで小さい三成が修行したり庭を掃いたりしてたのかなあ…と妄想たいむ
本当に立派な建物です!無知者でも見るだけで分かる、この古い雰囲気を醸してるのはなんだろう。細かい彫刻や造作も年代によって大分違うんだろうなァ…
この周辺の静かな環境と無人さも手伝って、ちょっと別世界に来たみたい。でも本当にここ、誰も居なさそうですが…でも重文があるのにお寺の住職も居ないはずは…?
ひととおり見て、肝心の三成がお茶の水を汲んだ井戸はどこに在るのか下の案内看板でちゃんと見ていなかった私は、上に続く階段を見つけたのでどんどん行ってみました。階段があるとのぼりたくなるのは、私だけじゃないはず…
ん!?
「横山城跡登り道(西国三十三番観音巡拝)」…
あっ…この山は…横山城なんだ。うわ〜気づかなかった…
(ちゃんと下の案内図に書いてあるよ…)
横山城といえば、姉川合戦の時に秀吉が陣取った山城ですよね。
ここから登れるんだ〜〜と思ったらのぼりたくなってしまいますが、今日は山登り予定はないので、いつか機会があれば…!
とか思っていたら、ガサガサっとどこからか物音が…っ!
ま、まさかー!?!と見回すと、薬師堂の裏から、軍手をはめたおじいさんがっっ ちょっと、びっくりしました。でもよかった熊じゃなくて…人が居た…。
軍手に何かの欠片を持ってます…
とりあえず三成の井戸の場所を聞いてみると、総門の脇の池端にあるとのこと。案内してくださるというので、お話を伺いがてらしばらくお散歩することになりました。
誰も居ないと思ったらこの観音寺は半ば無住なのだそうで、お坊さんも他のお寺にいるため普段は近隣の方々で管理をされているのだとか。何代か前から世襲制に変わる以前は、弟子をとって、その弟子に跡を継がせていた…などというお話です。わ〜、三成ももしかしたら、このお寺の住職になる生き方もあったのかなあ…なんて思いながら聞いてました。
また、檀家がない(禅寺)ので寺に収入がなく、しかも重文指定だけにセキュリティ設備も必須で、管理にお金がかかって大変なんだそうな…手に持ってた欠片も、薬師堂裏の別の建物が腐りかけて一部が落ちてたのでこれから直すんだと聞いて驚いたり同情したり。まわりが山なので、たびたび床下から小動物が侵入しては、夜中にセキュリティ装置が働き…そのたびに近所の人たちでこん棒もって真っ暗な本堂に入るのは大変なのだ、と嘆いていらっしゃった…。
おじいさん、頑張ってください…!
この本堂に安置されている重文である木像伝教大師座像は、木彫りの最澄坐像としては日本最古なのだということです。観音寺が伊吹山にまだあった頃や、今の場所まで下りてきた経緯などの歴史の話も面白かった…けど、いろいろ出てくる単語単語が分からないので、半分も理解できなかった気がします。。
三成の話も聞けたらいいなあ…と思ったんですが、あまりなさらず…もしかしたら実際のところ、違うのかしら。と思ったりしているうちに、気づけば30分以上立ち話をしていた…!
もう16時過ぎ!まだ、姉川と小谷が残っているので、お礼を言いつつお別れしました。とてもお話楽しかったです。ありがとうございました!
そして、とうとう件の井戸へ!
あったーー!
わりとこじんまりしています。
「石田三成 水汲みの井戸」
この人工池をぐるっと回りこんだ左端にあります。
奥に見えるのは伊吹山!私この風景がとても好きですよ…雪山って良いね…子供の頃を思い出す。
観音寺をあとにまた石田町まで戻り、酒屋さんの角を右折して10分ほど行くと、いよいよ姉川古戦場跡です。前方には小谷山が見える…!さっきの横山からこれから向かう小谷山まで、私はまさに姉川合戦の舞台に居るわけだ…
姉川の手前の土手に車を停める。
こちら側が織田・徳川軍、あちらに浅井・朝倉軍が対峙したのか…とおもってよく見ると、矢印のところになんか見える!車で移動します。
ここに慰霊碑がありました!
車は2,3台停めるスペースがありそう…
でも誰も居ないので心配ないです…。本当に、土曜も日曜も、人と鉢合わせないのが以外だ…誰かいそうなのになー…
逆側から横山方面を望む。
織田23,000に対して浅井8,000もちょっとおかしいけど、助っ人できてる徳川5,000に朝倉の10,000ぶつけるとは…信長もすごいなー。ほんとに、家康にしてみれば「耐え」の極みですね… 忠勝の言葉も身に沁みる。ここで無双2の姉川ムービー思い出すとよりいっそう印象深いとおもいます。
「元亀元年(1570年)6月28日」
戦いは午前五時ごろに始まり 午後二時ごろには終った。 この姉川をはさんで北に陣取る浅井、朝倉連合軍は約一万八千人、かたや南に織田、徳川連合軍も約二万八千人でした。
徳川方から仕掛けられたこの戦いは最初浅井、朝倉軍の方が優勢でした。織田方は、十三段構えの陣を十一段まで突破され、信長の面前に刀、槍が突き出るまでにいたりました。しかし徳川軍の力戦によって朝倉軍が後退したため、浅井軍は右翼から崩れはじめ城へ敗走することとなりました。
この戦いによる戦死者は、浅井、朝倉軍が千七百余人 織田、徳川軍も八百余人とみられ、負傷者は、その三倍にもおよび、清らかな姉川の流れも数多くの死傷者によって赤く血に染まったと伝えられています。
当時、浅井長政二十六歳、織田信長三十九歳でした。この後、一時和講が成立しましたが、天正元年(1573年)8月浅井氏は小谷城において滅びました。
この戦いは、信長の天下統一のきっかけと言われています。左の図は、この戦いの各軍配陣図ですが、これにも各種の説がありその一つです。
姉川の戦いでの戦没者は2,500人とも言われています。
この河原で、数万人がお互いを槍で突き合い刀で切り付け合ったなんて想像もつかない。戦いが日常ではない世の中になってよかったとしみじみ思いながら手を合わせ、小谷山へ向かいました。
(クリックで拡大)
姉川からさらに国道365号線を北上すること15分、長政さまの町にやってきた!
浅井亮政・久政・長政の浅井氏三代が居城とした小谷城は、標高495mの小谷山の尾根や谷をそのまま利用してつくられた戦国時代を代表する山城であり、日本五大山城の1つとされています。さらに日本百名城にも認定されてます。という訳で、今までのお城の中では一番高い!どんなところなのか楽しみです。
おお…すばらしきのどかな風景。
もう終ってしまった「功名が辻」の文字が入った旗が、ちょっぴり哀愁漂わせつつ揺れてます。
「国指定史跡 小谷城跡」
小谷城は戦国乱世の大永4年(1524)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して破れる天正元年(1573)までの50年間 浅井氏が根城としたところであり、六角氏との戦いや姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。 また、この城は信長の妹お市の方の住した所であり、その子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあってひとしお旅情をそそるものがあろう。
小谷城は、北国街道中山道北国脇往還の交通の要衝にあり、湖上交通を利用すればはるか湖南湖西京都へも通ずる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。城は典型的な山城であり、下より尾根上に出丸、金吾丸、番所、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、黒金御門、大広間、本丸、中ノ丸、刀洗池、京極丸、小丸と続き海抜395メートルの山王丸を頂きとする。山腹には赤尾根屋敷、御局屋敷、大野木屋敷を始め、削平地、竪堀等遺構は全山を埋めている。更に主峰大嶽六坊を始め要所には遺構が散在し清水谷には根小屋跡があって、武将たちの屋敷跡が歴然としており、これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。
落城後、木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町寺院等が今浜(現長浜)に移され、今は空しく松xのみが、昔の悲劇を物語っている。
― 昭和51年10月 湖北町教育委員会 ―
信長との戦いに敗れて浅井氏が滅んだあと、秀吉が小谷城をもらったけど、不便なので長浜にお城を移したのだそうです。今でも石垣や曲輪などが残っているそうで、結構山城好きなみなさんには人気のお城のようです。
この看板脇から登山できると書いてありますが…
1時間ではたしてどこまでいけるのか…。このスタートポイントでさえ滑れそうな傾斜だというのに、どんな修羅道が待っているのやらー!?
途中まで車で行ける、と下調べしていたのですがっ
なんと「通行禁止」… 松くい虫被害木の伐倒作業のため、とありますけども、その脇の「クマ出没注意」とか「スズメバチ被害が…」の方がそうとう気になります。
(クリックで拡大)
車だと、「現在地」から「番所跡」まで行けるのにな…
小谷山の頂上は「山王丸」、長政さまのお墓があるのは「赤尾屋敷」のあたりです。
(クリックでやや拡大)
この山全体がお城だったと思うと、規模の大きさが分かります。
次回来たときは、松くい虫作業終ってるといいなア・・・
と思いながら、小谷寺へ。
こちらの小谷寺は、お市が持っていた愛染明王が保存されている真言宗寺院で、小谷城落城時に焼失した後、秀吉により再建されたのだそうです。下調べによると「山門脇の大きな松の切株は、お市の方が長政と死別した後、柴田勝家に嫁ぐ直前に自ら植えたもの」らしい。まだ残ってるのでしょうか。
いよいよ暗くなってきたせいもあるけど、なんだか怪しい雰囲気です。。密教寺院に対する勝手なイメージも作用してるんだろうけど、ひと気のない薄暗い本堂にかかる白い薄布の向うに、かすかにろうそくの火が見えるのがちょっと怖い。
車が1台とまっていたので誰かいるはずなのに、人影がありません。お香が焚いてあるので人の気配はするのに、まっまさか、見えないだけ…
ここは、拝観するのに「要予約」(拝観料200円)とのことでした。
もちろん、予約などしてません。ひとり、境内をうろうろ…
あっ、これかー!?
「山門」がどこにあったのかちょっと不明ですが、切り株らしきものはこれ以外見つからず、たぶんこれがお市が植えた松なのでしょう。
そして…写真を撮っていたら、いきなりどこから現れたか
おじさんに話しかけられた…†ッ!
「お市の植えた松の切り株って、やっぱりそれですかね?」
…どうやら、県内に住むこのおじさんも松くい虫のお陰で小谷城ドライブを諦め、かわりに、N●K番組で紹介されていたという、小谷寺のお市手植えの松の切り株を探しに来ていたようです。歴史好きで週末の度にいろんな所へ出かけるらしく、「先週は出張で東京に行った時、増上寺にも行きましたよ。あそこも中々いいですよねえ!」と饒舌です。
…増上寺って??港区芝に広大な土地をもつ、徳川家の菩提寺でした。東京なのに、知らなくてすいません!(会社からわりと近かった…)
ってそんな場合じゃない。思いがけず話が長くなり、時計を見たらもう17:15…!!! 京都駅から乗る新幹線の時間を思うと、彦根で車を返して18:25の電車に乗らないと間に合わない。長浜から彦根まで道が空いてて30分。長浜からここまでだいたい20分。日曜日の夕方なんて、混むに決まってるのに、間に合うのかー?!
という訳で、小谷城リベンジを決めて帰途につきました。急いで!
そして、長浜で見事に渋滞…(やっぱり…)
すごい夕焼けだ… 新幹線間に合わなかったらどうしよー…
京都駅で買ったワッフルが晩ご飯…
その後、奇跡的に18時に彦根に到着…!
渋滞に揉まれつつ、山の向うに日が落ちるのを見ながら、山の稜線が真っ暗な山影と同化して消えていくのに感動したりしてるうちに、ナビでの予想時間より20分早く45分でついたよ…私やれば出来るな…
そうして朝からとってもお世話になったヴィッツさんを返し、彦根駅から新快速で京都まで約50分、無事に19:37のひかり東京行きに乗れました。後から思えば、ほんとに際どい移動計画でした。
でもお陰でもりだくさんの2日間…はじめてのひとり旅、はじめての滋賀県、本当に楽しかったです!
「無理をしないで 怠けない」
難しいことをさらっと言ってくださる。
これは今後、座右の銘にしたいとおもいます。
彦根宗安寺の門前のお言葉でした☆
湖東焼のひこにゃんのぐい飲み…
これでいつか買ってきた三成と左近の日本酒を飲めたらいいな…